収穫感謝礼拝を献げました

本校では、高校生が11月18日(水)、中学生が翌日の19日(木)に収穫感謝礼拝を献げました。
本ブログでは18日に行った高校生の礼拝の様子と宗教委員が行っていた献品の受付の様子を紹介します。


キリスト教のカレンダーでは、1年を振り返り、神さまから与えられた恵みに感謝する季節となりました。
与えられた恵みに感謝をするのがこの『収穫感謝礼拝』です。本校では生徒・教職員が一緒になって献げました。
この日の礼拝には講師として日本キリスト教会横浜海岸協会の上山修平牧師をお呼びしてお話をしていただきました。
礼拝堂のステージにはみなさまからの献品である果物やお米が所狭しと並んでいました。


始めに黙祷を捧げ、全員で讃美歌90番を賛美しました。
続いて宗教主任による聖書の朗読です。

新約聖書 マタイによる福音書 20章1節〜16節 『ぶどう園の労働者』のたとえ

 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。
 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、
 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。
 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。
 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、
 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。
 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
 それで、受け取ると、主人に不平を言った。
 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」


聖書朗読の後、上山牧師からお話をいただきました。
◎お話の要約
 今回の聖書の箇所を選んだ理由は昔経験した出来事がきっかけでした。
研修の一環で日雇い労働を経験した際、そこで出会った人々はその日に仕事を貰えるかどうかで、その日の生活が決まっていました。その人々は仕事が貰えれば、その日の泊まる宿とご飯が約束されます。しかし、仕事が貰えないと野宿をしないといけません。そこにあったのは約束されたことで得られる『平安』と約束されないことで募る『不安』です。
 この聖書の箇所では、最初から働いていた人々と後から少しだけ働いた人々が『貰った賃金』は同じでした。しかし、最初から働いていた人々には賃金以外にも『その日の生活が出来る』という平安が朝から約束されていたのです。それに対して夕方から少しだけ働いた人々は同じ賃金は貰えたが、夕方まで仕事が貰えずにいたので『今日をどう過ごせばいいのか』という不安がずっとあったのです。両者は与えられた賃金は同じでも、それ以外のことを考えたときに決して同じではなかったのです。
 我々人間は与えられた物(恵み)を当たり前のように思ってしまい、忘れがちです。例えどんな状況でも神さまは常に我々に愛情を注いでくれています。与えられている物に目を向けず、無い物ばかりに目を向けるのではなく、まず『何が自分に与えられているのか』を考えるべきです。

以上のようなお話をいただきました。
短い時間でしたが、上山牧師のお話はとても考えさせられる内容でした。貴重なお話をありがとうございました。
生徒たちは勿論、我々教員も『何が自分たちに与えられていて、何が出来るのか』ということをもっと真剣に考えないといけないと思いました。


本校の収穫感謝礼拝では、みなさまから献げられました果物、お米を以下の4つの施設にお届けします。
献品の受付、献品をステージに並べる作業は宗教委員の生徒が行ってくれました。お疲れ様でした。
また、たくさんの献品のご協力ありがとうございました。
写真は朝の献品受付の様子です。


◎献品を届ける施設
・聖星学園
・幸保愛児園
・寿地区センター
・横浜訓盲院


収穫感謝礼拝のお知らせとお願い

11月18日(水)、19日(木)に行われる『収穫感謝礼拝』についてのお知らせとお願いです。

キリスト教のカレンダーでは、1年を振り返り、神さまから与えられた恵みに感謝する季節となりました。
毎年この季節に『収穫感謝礼拝』を生徒・教職員が一緒になって献げます。
この礼拝では、みなさまから献げられました果物、お米を4つの施設にお届けします。
礼拝の日程、献品の受付日・種類、届ける施設は下記にある通りです。

○収穫感謝礼拝
・高校…11月18日(水)
・中学…11月19日(木)

○献品を集める日時
・11月16日(月)〜18日(水) 朝7:50〜8:20 事務室前

○献品の種類
・果物(ただし、いたみやすいものは不可)
・お米

○届ける施設
・聖星学園
・幸保愛児園
・寿地区センター
・横浜訓盲院

ご参考のうえ、ご協力お願い致します。


以下の写真は昨年度の礼拝の様子です。


創立記念特別伝道礼拝

10月7日(水)に創立記念特別伝道礼拝を行いました。
今年は、ウガンダの親を失った子供たちによるアフリカン・ゴスペルグループである
"Watoto"をお招きしました。本ブログでは、その礼拝のお話の一部をご紹介します。



"Watoto"は子供をお世話するチャイルドケアプログラムです。この働きは、教会をベ
ースにしたもので、地域の行政(警察署、教会)など様々な人たちの支援を受けて組
織と協力して行っています。ただし、助けを必要としている子供たち(孤児)のため
の働きです。
本校に来てくれた子供たちは、片親しかいなかったり両親が共にいなかったり、一度
も親に会ったことがない子供たちです。道などで拾われ、Watoto村でお世話をしてい
ます。
子供たちは、Watotoでの新しいお母さんや兄弟、姉妹と1つの家で暮らすようになり
新しい家族を形成し、質の高い生活をするようになります。これは、神様によって新
しく命をいただいたと考えることができます。

Watotoの子供たちはWatotoで生活するようになり夢を持つようになりました。その夢
を実現させるためには支援が必要です。コンサートに来てくださったり、寄付してく
ださること、また彼らが作成したCDやDVDを購入してくださることによって彼らを育
てることが出来ます。よろしければ、是非またコンサートに来てください。



以上、礼拝の一部をご紹介させていただきました。
"Watoto"は笑顔と希望にあふれたコンサートを通して世界中の人々に感動を与え、ア
フリカと世界の架け橋として活躍し続けています。本校でも綺麗な賛美とキレの良い
ダンスを見せていただくことが出来ました。ありがとうございました。
只今、関東ツアー中で本日も横浜市内でコンサートを行う予定なので、ご都合がつき
ましたら、是非一度足を運んでみてください。

10月15日(木) みどり野キリスト教会 【入場無料】 16:00〜17:00, 19:00〜21:00
横浜市青葉区すすき野2−6−16   TEL 045-902-7898


春季特別伝道礼拝をまもりました

6月18日(木)、本校礼拝堂にて春季特別伝道礼拝(花の日礼拝)をまもりました。
高校生は1時間目、中学生は2時限目に礼拝を行いました。
特別伝道礼拝ということで、写真家・ノンフィクション作家として活躍されている桃井和馬さんを講師としてお招きし、メッセージをいただきました。
本ブログでは、高校生の礼拝の様子を紹介します。



礼拝堂ステージには生徒たちが持ち寄った花が飾られていて、普段とは違った雰囲気の中で礼拝が行われました。



黙祷を捧げ、全員で讃美歌第二編26番「ちいさなかごに花をいれ」を賛美しました。
続いて宗教主任による聖書の朗読です。

  体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。
  足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
  耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
  もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。
  そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。
  すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。
  だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。
  目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えま
 せん。
  それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。
  わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい
 部分をもっと見栄えよくしようとします。
  見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組
 み立てられました。
  それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。
  一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶので
 す。
  あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。

                             (コリントの信徒への手紙 一 12章14節〜27節)

聖書朗読の後、桃井さんからメッセージをいただきました。


桃井さんのお話は、ご自身が世界各地で実際に撮られた写真をスクリーンで紹介しながら、その地で暮らす動物や植物の特徴を説明して下さる、という内容でした。

世界には様々な生物がいて、皆、その地で生き抜く為の知恵を持っています。

例えばアフリカ像は、他の地に生息する像に比べて耳が大きく、肌のシワが多い。これはアフリカの灼熱の暑さに耐えれるように、シワの多い肌には泥をすりつけて熱から身体を守り、大きい耳には多くの血管が通っていて、耳を動かすことで血管を冷まし身体全体を巡回させて体温を下げる、といった意味がある。

ヤドクガエルは自らの身体に毒を持つことで、天敵のヘビから身を守る。また、ヘビは他のカエルは捕食してもヤドクガエルは捕食しない。

栄養が少ない大地に咲く食虫植物は、虫を誘い込んで捕獲し、虫から栄養を吸収する。

アフリカには大量の枯葉や折れた枝などがあり、バクテリアだけでは消化しきれない量である。普段我々から煙たがられるシロアリは枯葉をよく食べる生き物で、持ち前の繁殖力も含めてアフリカに生息しているシロアリはこの地では欠かせない存在である。

以上は紹介して下さったお話の一部です。また、桃井さんはこのようにもおっしゃっていました。

『人間は、自分たちが偉いもの、強いものだと思いがちだが、決してそんなことはない。世界は強いものだけでは成り立たない。弱いもの、劣っているものにも意味、役割がある。それらのお陰で我々人間は生かされている。』

これはとても当たり前のことですが、見失いがちなことなのかもしれません。他の生き物と同様に、我々一人一人にも大事な役割があり、一人一人が欠かせない存在なのです。桃井さんはご自身の目で確かめた貴重な体験談から、このことを我々に再度教えて下さいました。

今回のこの礼拝での奨励題は、高校生が「君たちが必要だ!」、中学生が「暗闇の中の光」でした。生徒たちには、桃井さんからのメッセージの意味をしっかりと考え、今後の生活においていかしてほしいと思います。


講師:桃井 和馬 氏
写真家、ノンフィクション作家。これまで世界140ヵ国を取材し、「紛争」「地球環境」などを基軸にして、
独自の切り口で「文明論」を展開。講演・講座の他、テレビ・ラジオ出演多数。第32回太陽賞受賞。
公益社団法人「日本写真家協会」会員。桜美林大学特任教授。主要著書に「もう、死なせない!」(フレーベル館)、
「すべての生命 (いのち)にであえてよかった」(日本キリスト教団出版局)、「妻と最期の十日間」集英社、
「希望の大地」(岩波書店)、他多数。


なお礼拝後には、礼拝堂に飾られた花や寄せられた献品を携えて、本校の2年生たちが、交流のある下記の福祉施設や学校を訪問しました。訪問の様子については コチラ をご覧ください。

◆施設訪問訪問先
  1.恵和学園(知的障がい者福祉施設)
  2.横浜訓盲院(視覚障がい者福祉施設)
  3.共楽荘(特別養護老人ホ-ム)
  4.上郷苑(老人福祉施設)
  5.聖坂養護学校(特別支援学校)
  6.ハマノ愛生園(老人福祉施設)
  7.富岡はまかぜ(特別養護老人ホ-ム)
  8.聖星学園(知的障害者福祉施設)
  9.わかたけ富岡(特別養護老人ホ-ム)
  10.シャローム(特別養護老人ホーム)


ペンテコステ礼拝

本校は5月28日(木)・29日(金)で、
ペンテコステ礼拝を行いました。



5月28日(木) 中学 礼拝
説教「新しい戒め」
聖書 ヨハネによる福音書 13章31節〜35節

 新入生の方々にとっては、キリスト教というものに、この学校に来て初めて接したという人が多くいらっしゃると思いますが、難しく考えることはありません。ここにこんなに大きな聖書が置かれています。これを、キルケゴールという哲学者は、こう言いました。「これは、わたした一人ひとりに送られてきた、神によって書かれたラブレターだ」と。こんなに分厚い、これはラブレターなんだ、神様がわたしたちをこんなに愛しておられるのだ、その証なんだ、それが聖書なんだよ、と言うんですね。じゃあ、その神様の愛というのは一体どのようなものなのか。先ほどお読みした箇所に「新しい戒め」という言葉があります。
 この新しさというのは、人類が全く初めて出会う「新しさ」なのです。それ以前には、こんな戒めは知らなかった。この新しい戒めには、「わたしがあなた方を愛したように、あなた方も愛し合いなさい」というものです。この「わたしがあなた方を愛したように…」というのが、神の愛のことです。それはあなた方一人ひとりが誰も滅びないように、罪の奴隷とならないように、いつまでも苦しみや悩み、悲しみの中に閉じ込められ続けていないように、ご自分が犠牲となってあなたの苦しみを担い、私たちの罪を、私たちに代わって「死んでくださった」というイエスの十字架の死に極まる愛のことです。
 ヨハネ第一の手紙 3章16節を見ますと、そこにはこのように書かれています。「イエスは、私たちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちも兄弟のために命を捨てるべきです」とあり、これが新約聖書が教える「愛」の姿なのです。
 私たちの知っている愛は、大抵が相手の持っている価値に向けられた愛ではないですか。あの人は綺麗だとか、あの人は優しく男らしい人だとか、あの人はすばらしい才能やたくさんの財産を持っているとか…。しかし、これらは実は自己中心的な愛です。そのような愛は必ず、相手を自分の中に取り組んでいく愛です。決して、相手に自分を与えるということにならない。これは一歩間違えれば非常に危険です。
 しかし、主イエスがここで「あなた方も互いに愛し合いなさい」と言われていることは、ご自身が示し給うた「愛」と同じ性格の愛をもって、私たちが互いに愛し合うことを期待なさっているということです。
 なんと言おうと、これは恵みの言葉です。私たちにとって例え、それが厳しい命令として聞かれたとしても、聖書ではその前提に必ず前提があるのです。
 「互いに愛し合いなさい」と言われる時、「私があなた方を愛したことを、そしてこれからもずっとあなた方と終わりの日まで共にいて愛し続け、許し続けている、そのことを知っていなさい」ということです。それから、もし、あなたが傷つけた人、あなたが裁いた人、あなたが暴力をふるった人、あなたが無視した人、それらの人の痛みを、その人がどんなに苦しんでいるか、どんなに悲しんでいるか、それが分からないなら、想像出来ないのなら、私の十字架を見なさい。この十字架の上で流している血と涙を見なさい、これはあなたがいじめている彼や彼女のその苦しみでもあるのだ。そのことを知りなさい。そうすれば、主イエスがご自分の命を犠牲にしてまで、私たちを愛し抜かれたことを知って、あるいはそれ故に「あなた方も、互いに愛し合いなさい」「愛し合えるはずではないか」と。そのように主イエスは言われるのです。ほんの少し、些細なことであっても、ちょっと自分の時間を犠牲にして、友達を助ける、ちょっとした犠牲、これが大切なことです。
 さて、時間が来てしまいました。この町に今話したキリストの愛が告げ知らされているということです。教会はキリストの体です。キリストは教会を通してご自分を表しておられるのです。ですから是非、教会での交わりを経験し、互いに愛し合うことを学んでもらいたいと願っています。



5月29日(金) 高校礼拝
聖書 申命記 31章7節〜8節

 今朝は、今読みました旧約聖書申命記31章7節から8節に目を留めたいと思います。旧約聖書の出エジプト記は聖書の時間にもう勉強なさいましたか。
 エジプトで奴隷として重労働させられていたイスラエルの人々を解放し、モーセを指導者として、イスラエルの人々を約束の土地カナンへと導き入れるという物語です。
 しかし、今まさにヨルダン川の東側にあって、カナンの地、今で言えばパレスチナを目の前にして、モーセはヨシュアに命ずるのです。自分はカナンの地に入れない、「あなたがこの民と共に、行きなさい」と、そして付け加えます。8節「主は自らあなたに先だって行き、またあなたと共におり、あなたを見放さず、見捨てられないであろう。恐れてはならない、おののいてはならない」と。ヨシュアは今日から、人々をまだ一度も見たことのない土地に安全に導き入れるという任務を遂行しなければならないのです。重大な責任を託されたのです。
 私たちは将来、皆が皆、ヨシュアのような指導者として立たされ、用いられるわけではないとしても、主なる神は、神のご計画に従って、私たちを選び、私たちを一人ひとり見込んでくださり、私たちを用いてくださいます。そういう意味においては私たちもヨシュアと同じように、いつでも新たな試練の前に立たされ、あるいは新たな困難に日々直面しながら、人生という度を続けていかなければならない、そういう者たちです。
 モーセはヨシュアに「恐れるな」と命じます。なぜなら、「主、みずからが、あなたに先だって、いくべき所へ導いてくださり、また、どんな苦難の時にあっても、あなたと共にいてくださり、もうお前には愛想が尽きたとか、お前にはもうこれ以上期待出来ないなどといって、あなたを見放すようなことは決してなく、どんなことがあっても見捨てるようなことはなさらない方であるからだ」という確信を述べるのです。
 神による救いの約束が、今歴史においていよいよ実現しようとしている。その新たな出発点において、語られた言葉です。
 今日まで指導してくれた、民族の父といってもいいモーセは、これからイスラエルが経験する新しい歴史の始まりを前にして、もう自分達と一緒にいてくれないのです。これからはモーセなにでやっていかなければならない。そのような「不安」と「おののき」の中にあって、「恐れるな、主がいてくださる」と語りかけるのです。「あなたを見放さず、見捨てられない」という神への信頼です。
 そのような揺るぎない信頼を持つことの出来る人間は本当に強いのです。それと同じことを、主イエスも弟子達に言われました、「思い煩うな」と。今、自分が否応なしに抱え込んでいる重い課題、自分の今の生き方に対する不安、そういうことで思い煩うな。
 とりわけ責任感の強い人は、自分こそが最後の始末をつけなければならないと思い込む。そういう時、人は「思い煩う」でしょう。もちろん主は「責任感」でいろ、などといわれていないのは当然のことであります。そうでなくて、主イエスが禁じておられるのは、「思い煩い」に身をすり減らし、不安におののく、ことです。これらは私たちの人生から「喜び」を取り去ってしまうからであります。
 そうではなくて、思い煩いから解放されないと、主はそのように言われます。なぜ、「思い煩わない」で良いのか。それはここでも「約束」という言葉がキーワードとなります。どのような約束か、それは皆さんが聖書の時間に発見していってください。


イースター礼拝をまもりました

本校では、中学生が14日(火)に、高校生が15日(水)にそれぞれイースター礼拝をまもりました。



イースターはキリスト教の暦でイエス・キリストの復活を祝う日です。数ある宗教行事の中でも、イースターは、本校が大切にしている宗教行事のひとつです。

今年度のイースター礼拝は、日本基督教団逗子教会の小宮山剛牧師をお招きし、お話をしていただきました。


本ブログでは、中学生の礼拝でのお話を紹介します。

聖書 マタイによる福音書28章1節〜10節
さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

お話の内容
 みなさんは「イースターって何?」って聞かれたことはありませんか?そのとき、なんと答えますか?私が住んでいる逗子の、あるスーパーのチラシに「春の味覚で祝うイースター・復活祭」と書かれていました。なにかと思って見ると、それはたまごや、たまご料理の特売の案内でした。そしてそこにこう書かれていたんです。「イースターとは?‥‥イエス・キリストの復活を祝い、記念する日です。復活祭とも言われます。」
 さらにその下に、「復活祭とたまごの関係‥‥ヒヨコがたまごの殻を破って出てくるように、キリストも死という殻を破ってよみがえられました。そういうことから、新しい命をもつ『卵』が復活のシンボルとされています。」
 みなさん、この説明は合ってますか?間違っていますか?
 大正解ですね。まことに短く、しかも適切な説明です。私でも、もしかしたらこれほど簡潔に説明できないかもしれません。本当に感心しました。
 さて、卵は親のニワトリがあたためていれば、やがてヒヨコが生まれます。でも、教会のイースターで配るたまごは、ゆで卵です。ゆで卵をいくらニワトリがあたためても、ヒヨコは生まれませんね。ひながかえることはあり得ません。ではなんで教会ではゆで卵を配るのか、ということですが、そのあり得ないことが起こった、というのがイエスさまの復活だからです。
 イエスさまは、イエスさまを憎む人たちによって、十字架という死刑台にかけられて死んでしまわれました。死んだら終わりになります。ですから、イエスさまを信じて、ついて来た弟子たちも、「終わった」と思いました。残念ですが、弟子たちは解散して、家に帰るしかありません。イエスさまのお話は終わったのです。
 ところが、イエスさまが死んで墓に葬られてから三日目の日曜日の朝のことでした。イエスさまのお墓に行った女性の弟子たちのところに天使が現れ、イエスさまがよみがえった、生きていると告げられたのです。
 女性の弟子たちは、もうびっくりして何が何だか分からなくなりました。そしてその天使たちが言ったように、他の弟子たちのところにこのことを言うために墓場から戻っていきました。すると戻っていく途中に、よみがえったイエスさまに出会ったのです。そしてイエスさまは、彼女たちに「おはよう!」とおっしゃいました。それは、みずみずしい、復活のイエスさまの姿でした。
 こうして、イエスさまのお話は、終わりではなくなりました。新しい、始まりとなったのです。
 まず、イエスさまを信じる時、死は終わりではないことが分かります。そして、私たちも、「もうダメだ」「終わりだ」と思うことがあるかもしれませんが、それはイエスさまにとっては終わりではないよと、私たちに教えています。
 弟子たちは、イエスさまが死んで、「終わった」と思いましたが、よみがえったイエスさまに出会って、喜びに満たされ、教会が誕生しました。つまり教会もイエスさまの復活があったからできたんです。
よみがえったイエスさまは、私たちが望むなら、共に歩んでくださる方です。このことを覚え、新しい気持ちで歩んでいきたいと思います。

キリスト教主義学校の本校では、このように日々の学校生活の中における宗教行事を大切にしています。聖書の言葉に耳を傾け、生徒の心が清く豊かに育つよう日々見守っています。


第63回 卒業礼拝

2月26日(木)、本校礼拝堂にて第63回卒業礼拝を行いました。
卒業を控えた6年生と全教員が共にこの記念の礼拝を捧げることができました。
この礼拝はもちろん、6年生の生徒が本校でこれまで礼拝を守り続けてこれたことに心から感謝いたします。
礼拝メッセージは、日本基督教団川崎戸手教会 孫 裕久 牧師にお願いをいたしました。
メッセージは「ペトロの涙」というタイトルです。

「ペトロの涙」は人間の弱さであり、不完全さです。
「人は口で告白したり、約束したりします。しかしそのように、生きることはそう容易いものではない。」孫牧師は生徒たちにこう語りかけ、「しかし、自分の矛盾に気付き、それでも苦悩するその姿が人間らしく、その涙にこそ希望がある。」とも話されました。
孫牧師自らの体験をふまえ、ユーモアも交えて聖書の言葉を分かりやすくお話してくださいました。
わたしたち教員自身も考えさせられる内容であるとともに、卒業を控えた生徒一人ひとりがこれからの人生で直面するであろう困難や苦悩に対する励ましのメッセージでもありました。
卒業礼拝のために説教の労をとって下さった孫牧師には心から感謝申し上げます。ありがとうございました。
以下、本ブログではこの卒業礼拝の様子をプログラムに沿ってご紹介いたします。

第63回 卒業礼拝
                                                   
司式 伊藤多香子   奏楽 深野 基

前 奏



招 詞 イザヤ56章1節

     主はこう言われる。
      正義を守り、恵みの業を行え。
     わたしの救いが実現し
     わたしの恵みの業が現れるのは間近い。

     

頌 栄 539(あめつちこぞりて)

主の祈

交読文 詩編23編

     主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
     主はわたしを青草の原に休ませ
      憩いの水のほとりに伴い
     魂を生き返らせてくださる。
      主は御名にふさわしく
     わたしを正しい道に導かれる。
        死の陰の谷を行くときも
       わたしは災いを恐れない。
     あなたがわたしと共にいてくださる。
       あなたの鞭、あなたの杖
        それがわたしを力づける。
     わたしを苦しめる者を前にしても
        あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
     わたしの頭に香油を注ぎ
        わたしの杯を溢れさせてくださる。
      命のある限り
      恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
     主の家にわたしは帰り
      生涯、そこにとどまるであろう。

讃美歌 354(かいぬしわが主よ)



聖 書 マタイによる福音書26章69〜75節

      ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人
     の女中が近寄って来て「あなたもガリラヤのイエス
     と一緒にいた」と言った。ペトロは皆の前でそれを
     打ち消して「何のことを言っているのか、わたしに
     は分からない」と言った。ペトロが門の方に行くと
     ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に「こ
     の人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。
     そこで、ペトロは再び「そんな人は知らない」と誓
     って打ち消した。しばらくして、そこにいた人々が
     近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあ
     の連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」その
     とき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら「そん
     な人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が
     鳴いた。ペトロは「鶏が鳴く前に、あなたは三度わ
     たしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの
     言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。

祈 祷

説 教 「ペトロの涙」
 
    孫 裕久 牧師 日本基督教団川崎戸手教会 



祈 祷

讃美歌 243(ああ主のひとみ)

頌 栄 541(ちちみこみたまの)

祝 祷




後 奏


◆講師紹介

 孫 裕久(ソン ユウグ)牧師 日本基督教団川崎戸手教会

 神奈川教区 社会委員会 委員長
  横浜YMCA 講師
  農村伝道神学校 講師
  社会福祉法人 青丘社 理事


「ペトロの涙」

 ペトロはイエスのことを知らないと言いました。このペトロというのはイエスの1番弟子であり、のちにキリスト教会の礎を築いた中心人物ですが、こともあろうにイエスのことを知らないと言ったのです。「呪いの言葉さえ口にしながら」というのは「最高の誓いの言葉をもって」という意味を表しており、要するに「最高の誓いの言葉をもってイエスのことを知らない」と言ったのです。
 なぜか。助かりたかったから。死にたくなかったからです。
 もっと端的に述べれば、自分が助かるためにペトロはイエスを見捨てたのです。そしてそのとき鶏が鳴いた。ちょうど鶏の鳴き声を聞いてペトロは激しく泣いた、と今日の物語の最後は結んでいます。イエスを見捨てた罪の意識に苛まれペトロは泣いたんだろうと思うんですが、そこには少し別の事情があったのです。実はこの出来事の前日にこんな事がありました。
『そのときイエスは弟子たちに言われた、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまづく。」』『するとペトロが、「たとえみんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度、わたしのことを知らないと言うだろう」ペテロは「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。』(マタイ26:31-35)
ペトロは命に代えてもあなたのことを知らないなどと絶対に言わないと言っています。そう誓っておきながらいざその時、その数時間後、自分の命を救うために知らないと言ってまたその誓いを立てたということです。無様で醜く、卑怯極まりない。ゆえにペトロは激しく泣いたんです。しかし、ただひとつだけ残しえたもの、それは自分の命でした。イエスを見捨てることと引き換えにペトロは自分の命を救ったのであります。

ただ、わたしはだからといってこのペトロのことを断罪することはどうしてもできないのです。人は口で告白したり、約束したりします。しかしそのように、口で告白したり約束したように生きることはそう容易いものではないのです。
 まして聖書は自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい。と教え、かつわたしたちにそれを要求します。聖書の言う愛するとは、究極的には隣人のために自分をささげるということです。しかし、実際にはそれは無理なんです。
 しかし、無理にあぐらをかいていいとは言えませんけども、無理であることを自覚せずに人を愛するなどと軽々しく口にすることはできないわけであります。
 ペトロの悲劇はイエスが逮捕された時そのあとを追いかけたことにありました。イエスがユダヤ教の指導者たちに捕らえられ時、主立った弟子たちはイエスを見捨ててみんな逃げてしまった。ところがペトロただひとり、イエスの後を追いかけていった。そしてイエスは大祭司邸の屋敷に連れて行かれて、裁判を受けることになりました。ペトロはその後を追いかけて大祭司の屋敷の中までは入り込めなかったけれども、その屋敷の中庭まで行ったんです。ペトロはイエスを見捨てることがやはりできなかった。だから後を追いかけた。さりとてイエスと最期まで行動を共にすることまではできなかった。それは自分の死を意味するからであります。イエスを見捨てて完全に逃げることもできず、さりとてイエスと共に十字架にかかるほどの信仰も勇気もない、そんなペトロにできることはせいぜい大祭司邸の中庭に入り様子をうかがうというところまででありました。しかし、実はそこが一番危険なゾーンなのであります。なぜならそこは「お前はイエスの仲間だろ」と人から問われるところだからであります。
 それはペトロの中途半端な態度に問題がありました。彼の内心は、自分は逃げてはいない、見捨てなかった、一緒に死ぬ覚悟まではなかったが、ただ見捨てることはできなかったというその一点で、イエスのためと言うよりは一番弟子のプライド、意地みたいなものでイエスの後を追いかけたのであります。しかし、追いかけたのだけれども追いかけていける所は、大祭司邸の中庭どまりでした。
 聖書というのはキリスト者の書物ではありますが、キリスト者に限らず人間というのはすべからくそういったところがあるものではないか。傷ついた人を前にして、人としての善意がその人に手を差し伸べるのだけれども、どこまでその人と最期まで共にすることができるのか、その覚悟があるのかと問われるのです。
 そんなことを考えると、人は傷んだ人を前にすると「自己責任」という都合のいい言葉を持ち出してそこから立ち去っていくのであります。あえて大祭司邸の中庭に踏み込むところまではいかない、なぜならそこは最も中途半端かつ危険な場所であるからです。イエスを見捨てて立ち去ることもできない、だからといってイエスと共に十字架にかかることもできない、そんな人が立つところそれは大祭司邸の中庭であります。人間はそこに立っている。
 わたしは12年前、その大祭司の中庭に入ってしまいました。そのとき朝鮮学校の先生と保護者が我が家を訪れ、お子さんを朝鮮学校にどうですかと誘われたんです。
 わたしには2人の娘がいるんですけれども、ちょうど上の娘が保育園に入る年齢に達していたんです。わたしが勤めている教会は多摩川の河川敷にあって、そこに在日韓国朝鮮人が大勢住んでいます。そしてその多くの方々は、朝鮮学校を卒業した人たちでその子供たちは現役の朝鮮学校の在校生でした。日頃からそんな人たちと交流がある中で、わたしは当時厳しい環境におかれていた朝鮮学校を支援しようと働き始めたのであります。朝鮮学校の理解を深めようと色々な活動をしました。そんなとき、朝鮮学校に理解のある孫牧師のお子さんを(朝鮮学校の)保育園に入れようと朝鮮学校の先生と保護者が誘いに来たのでした。しかし、自分の娘を朝鮮学校に入学させることなどは考えてもいなかった。自分は朝鮮学校を支援しようとしている傍ら、他人事だったのです。「あと1年ぐらいは保育園に入れるつもりはない」と言って断りました。そこで、自分が言っていることとやっていることの違いに悩み、苦しみました。そして1年後、もう一度誘いがありました。今度は「他の幼稚園に入園させるつもりだ」と言って断りました。朝鮮学校に入れさせたくなかったので嘘をついたんです。頭で考えていることと口で言っていること、やっていることがバラバラな自分の醜さ、卑怯さに悩みこのままでは牧師を続けていけないと考えました。
 そこから2年後、娘が小学校にあがるときにまた誘いが来ました。このとき、家族を説得し、娘を朝鮮学校に入学させました。
 朝鮮学校に寄り添っていこう、支援していこうとしながら、自分の娘を入学させようというとそこで自分の限界とぶち当たって自分の醜さや汚さ、情けなさ、卑怯さに出くわすことになりました。しかし、わたしは思います。人生とは、生きるとは、人間て何なんだろう、と考えさせられるのは、まさに大祭司邸の中庭なんじゃないかと思うんです。それこそが人間らしく、人間が生きる場所ではないかと思うのです。そこで流した涙が明日の希望につながっているのではないかと思うのです。
 みなさんも将来、これから社会に出て色々な人に出会い、共に寄り添い生きようとする中には自分の限界と出会い、友を裏切り自分の醜さに出会いペトロの涙を流すことと思います。けれども、その時にどうぞ失望しないで欲しい。そこでペトロの涙を流すと言うことはいい線いってるんだということなんです。逃げていないんです。さりとて自分のすべてを投げ出すまではいかない、その中途半端な大祭司邸の中庭に足を踏み入れたがゆえにそこで苦しみ、醜い自分と出会い涙する。その積み重ねがわたしは人生と言うものじゃないかと思うのです。そしてその涙に報いてくれるのが神様ではないかと思います。ペトロの涙を流すことに失望するのではなく、その涙にこそ希望があると信じてどうぞ生きていって欲しいと思います。



奉唱「聖なる都」睫斃せ卆萓

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1月27日(火)の中学礼拝、28日(水)の高校礼拝は、睫斃せ卆萓犬諒唱による礼拝でした。
本ブログでは28日(水)の高校礼拝の様子を動画を含めてご紹介いたします。
なお睫斃せ卆萓犬離廛蹈侫ールについては、本ブログの後半に記載してあります。
またパイプオルガン演奏は本校音楽科の深野教諭です。

■聖書 ヨハネの黙示録21章1節〜4節

   わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、も
  はや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着
  飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そ
  のとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間
  にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神と
  なり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲
  しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」


■楽曲の紹介(睫斃せ卆萓検
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皆さんと一緒に礼拝の時間をもつことができましたことを感謝します。
本日は「聖なる都」という歌を歌わせていただきます。
この「聖なる都」とは、イスラエルにあるキリスト教の聖地エルサレムのことです。
この曲は3番まであります。
1番は、旧約聖書の預言どおりにイエス様がエルサレムにいらっしゃった場面です。
2番は、私たちの罪のためにイエス様が十字架にかけられ亡くなった場面です。
そして3番はこれから未来に来たる「新しいエルサレム」のことを歌っています。
先ほど読んでいただいた聖書はその「新しいエルサレム」について書いてあります。
そこに描かれる「新しいエルサレム」は、死も、悲しみも、叫びも声も、労苦もない場所と書かれています。
これは私たちが考える平和を大きく超えた神様の愛による平和が実現するところだと私は思います。
曲は、時間の流れや、扱っている内容から、とてもスケールの大きなドラマチックです。
「新しいエルサレム」が現れるとき、「どうかそれに気づくことができますように」と、
いつも心の目を開いておきたいと思います。
この曲のなかでは「ホザンナ」という言葉が何度かでてきます。
この「ホザンナ」の意味は「今すぐ、救い給え」という意味です。
さまざまな場面で、さまざまな文脈で出てきます。
ここで歌われる「ホザンナ」とは、私に対してなのか、イエス様に対してなのか、それとも世の中に対してなのか。
いろいろな見方ができると思います。
皆さんぜひ、そのことを考えながら聴いてください。




■睫斃せ卆萓献廛蹈侫ール
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 睫斃せ辧淵愁廛薀痢
  東京藝術大学音楽学部声楽科卒業。二期会オペラ研修所修了。
  オペラアンサンブル、宗教曲、芝居など様々な舞台に出演。
  さいたまシティオペラ『ヘンゼルとグレーテル』グレーテル役で出演し好評を得る。
  さいたまシティオペラ会員、二期会準会員、東京ミュージックアーツ会員、三輝会会員。

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礼拝終了後、生徒たちからは。睫斃せ卆萓犬糧しいソプラノの奉唱に感謝の拍手が贈られました。
今年度、睫收萓犬蓮◆受難週を迎えての礼拝」「クリスマスツリー点灯式」でも奉唱をしていただきました。
睫收萓犬領蘿劼里簡仕に改めて御礼を申し上げます。
ありがとうございました。


クリスマス賛美礼拝での献金のご報告

昨年12月13日(土)に行われたクリスマス賛美礼拝には、在校生の保護者の皆様をはじめ、近隣の皆様など多くの方々にお越しいただきました。礼拝の様子については、こちらのブログをご覧ください。

礼拝当日、皆様にはクリスマス献金にご協力いただきました。
皆様からお寄せいただいた献金は114,784円でした。感謝とともにご報告いたします。



この献金は、以下の31ヶ所の団体・施設に送らせていただきます。
1.日本基督教団東北区被災者支援センター・エマオ
2.横浜訓盲院
3.恵和学園
4.日本キリスト教海外医療協力会
5.横浜いのちの電話
6.信愛塾
7.衣笠ホーム
8.日本キリスト教団神奈川教区寿地区活動委員会
9.アジアキリスト教教育基金
10.日本バプテスト連盟国際ミッションボランティア・佐々木さんを支援する会
11.日本バプテスト神学校
12.止楊学園
13.日本基督教団京都地区バザールカフェ
14.日本キリスト教協議会教育部
15.日本キリスト教奉仕団
16.大阪水上隣保館
17.アジア学院
18.幸保愛児園
19.チャイルド・ファンド・ジャパン
20.共生庵
21.シャローム(地域支援センター)
22.日本バプテスト海外伝道協会
23.聖坂養護学校
24.日本盲人キリスト教伝道協議会
25.全国キリスト教学校人権教育研究協議会
26.キリスト教ミード社会館
27.シャローム(特別養護老人ホーム)
28.広島救援基金
29.光の子どもの家
30.PHD協会
31.日本聾話学校


クリスマス礼拝

20日(土)、本校ではクリスマス礼拝・終業式を行いました。今年度も「クリスマス礼拝」を守ることで終業式とする形で執り行われました。本ブログでは、中学のクリスマス礼拝の様子を中心にお伝えします。


この日のために結成された聖歌隊がキャンドルを持って入場したり、有志の生徒たちによるトーンチャイムの演奏があったりと、普段の礼拝とはかなり異なる雰囲気で行われました。


礼拝の中盤では、生徒たちによる聖誕劇(ページェント)が行われました。聖書の物語を通して、イエス・キリストの誕生を演じます。この日の本番に向けて何度も練習を重ねてきました。この聖誕劇は第一場から第五場で構成されています。
 第一場 イエス・キリスト誕生の予告
 第二場 イエス・キリストの誕生
 第三場 占星術の学者たち
 第四場 羊飼いたちへの福音
 第五場 はじめてのクリスマス



聖誕劇が終わると、吹奏楽部による「カンタベリー・コラール」の演奏とともに、キャンドルを持った生徒たちがゆっくりと入場してきます。歩調を合わせてステージまで行き、十字架体型のキャンドルライトが完成します。


高校の礼拝では、吹奏楽部の生徒による前奏から礼拝がはじまりました。
「久しく待ちにし」


また、中学の礼拝のような聖誕劇や十字架はありませんが、4年生全員によるゴスペルがありました。本校でも授業を担当している塩谷達也先生の指揮のもと、2曲を歌いました。
「This little light of mine」
「Go tell it on the mountain」


説教では「愛の贈り物」(中学)、「Joy to the world!」(高校)と題して、米国改革派教会牧師のキスト岡崎さゆ里先生からメッセージをいただきました。高校の礼拝ではスライドも織り交ぜながら、生徒達にわかりやすくクリスマスの意味をお話いただきました。さらに、讃美歌「もろびとこぞりて」では、キスト岡崎エイブラハム先生のオリジナルの伴奏で賛美しました。


最後に黒畑校長から生徒達へメッセージがありました。

“クリスマスの本当の意味は何か?そのことをしっかりと捉え、素敵なクリスマスを過ごしてください。”

このクリスマス礼拝を通して、クリスマスの本当の意味、喜びとは何であるかを生徒たちは改めて感じ取ることができたのではないでしょうか。
本ブログをご覧のみなさまも、どうぞ素敵なクリスマスをお過ごしください。



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