この講座は、関東学院大学の実験室で大学の機材を使い、大学の先生に教わりながら本格的な実験を行うものです。
毎回2つの講座が用意され、それぞれ希望した生徒が集まります。今回は「コンピューターの基礎〜ディジタル演算」の講座の様子をお伝えします。
この日の先生は、関東学院大学理工学部情報学系の教授の方です。先生は人工知能、知能ロボティクス、ソフトコンピューティング、ニューラルネットワークなどを専門にされています。まさに時代の最先端の研究です。
この日の授業では「E-Station」という電気、電子の学習ができる実験キットを使って、コンピューターの元になっているディジタル回路を作成し、その動作を観察する実習を行います。
「E-Station」はブレッドボードという基盤に簡単に電子回路を組み立てることができ、それにつなぐ電源、電流や電圧を測定するオシロスコープまでがセットになった便利なキットです。大学生の基礎的な学習にも用いられているようです。実際に接続しながら、「E-Station」の基本的な使い方を学んでいきます。
先生から基本ゲートであるNOT,AND,OR回路について学び、それを組み合わせたNAND回路やNOR回路についても教えてもらいました。これらの回路を膨大な数組み合わせて、パソコンやスマホができているそうです。
話はちょっと難しかったですが、いよいよ実験です。NOTゲート,NANDゲート,デコーダ回路(メモリ素子の元)のいずれかを選んで回路を作ります。プリントや見本の回路を見ながら組み立てます。作業に入ると、みな無言で黙々と作業に没頭していました。
時間が足りず、完成した生徒は少なかったですが、回路の動作をお手本の回路を使ってみんなで確認しました。完成した生徒も少しの組み間違いで、正しい結果が得られなかったようです。正確さが問われる緻密な作業でした。
本校でもクロームブックが導入されたり、授業でプログラミングが扱われるようになったりと、ICT機器にふれる機会が増えています。将来関東学院大学に進み、エンジニアとして羽ばたく生徒が現われることを楽しみにしています。
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今日は、創立記念にあたり、北海道大学の前身である札幌農学校で教えられた有名なクラーク博士の「Boys、be ambitious!」の由来と、それが、関東学院とどういう関係があるかをお話します。
1876年(明治9年)8月、明治新政府は、北海道に、札幌農学校を創立しました。その時の北海道開拓長官は、黒田清隆でした。陸軍中将でした。黒田長官は、農学校の施設、運営、教育の実際に当たる人物を、アメリカに求め、マサチューセッツ州立農学校の校長であったウィリアム・スミス・クラークを招聘しました。彼は、南北戦争に従軍して陸軍大佐になった人です。
こうしてクラーク博士は創立の前月、1876年7月、横浜に上陸し、品川から玄武丸という船に乗って、北海道に赴任したのです。小樽港に上陸し、そこから陸路、札幌に行くのです。
玄武丸の中には、第一期生として選ばれた学生と、黒田長官が一緒に乗っていました。船中で、黒田長官はクラーク博士に聞きました。「この度の新設の学校の目的は、人格の高い人物を養成するのが第一でなければならないと思うが、それについてあなたはどういう方針を持っておりますか。」すると、クラーク博士はこう答えたのです。「私は、キリスト教以外に最高の道徳はないと思います。ですから、この新設の学校においては、精神教育の根底をキリスト教に、即ち、聖書において教育しようと思います。」これに対して、黒田長官は「それは困る。日本には儒教があり、神道があります。何を好んで外国の宗教を取り入れる必要がありますか。キリスト教を入れることは許しません。」と反対したのです。クラーク博士は、それに対して、キリスト教の教えを懇切丁寧に説いたのです。しかし、議論を闘わせてもお互いになかなか譲りません。一方は陸軍中将、他方は陸軍大佐、二人とも軍人です。その信じるところを曲げない。とうとう、船は小樽について、いよいよ札幌へと陸路を行くことになりました。
開校が迫っているのに、まだ決定しない。そこでクラーク博士がこう言ったのです。「私が教育の根底に聖書を教えることができなければ、就任をお断りし、これから引き返して、アメリカに帰ります。」黒田長官は「開校は来月に迫っている。今、あなたに帰られては、開校ができない。・・・・・・・・仕方がありません、それでは、聖書を教えることを許します。しかし、あまり大げさにやらないように・・」と言って、とうとう折れたので、札幌農学校は予定通り開校することになったのです。
開校式の日に、学生がその式場に行ったら、一人ひとりの机の上に分厚い聖書が一冊ずつ置いてありました。それは、クラーク博士が横浜で英語の聖書50冊を買って持ってきたのでした。授業の前に聖書講義をもって始めたということです。もちろん、クラーク博士は農学を教えるために来たのですから、植物・動物・生物学、それから土壌学など、その方面に関する所の豊かな知識をもって教授されました。しかも、「それを運用する所の人物が、キリスト教の精神によって養成されたのでなければ、そのサイエンスを人間のために立派に役立たせることはできない」と言う確信をもって教えたのです。
教えること8か月。3月に契約期限が終わり、クラーク博士はいよいよアメリカに帰ることになりました。1877年(明治10年)4月16日、北海道室蘭を経由してアメリカに帰る事になったので、その日、学校の職員と学生が馬に乗って見送ったのです。島松という所に来ると皆は馬から下りて休憩しました。しばらく休んだのち、クラーク博士は学生一人一人と堅い握手をかわし、再び馬に乗りました。そして、「Boys, be ambitious!」の一言を残し、馬に鞭を当てて、森の陰に消えていったのです。これがあの有名な「青年よ、大志を抱け。Boys, be ambitious!」の由来です。
クラーク博士はアメリカに帰る前の月に、「イエスを信じる者の誓約」を英文で作成しました。その中には、キリスト教の大切な信仰を箇条書きにしてあり、「われわれはこれを信じ、この約束を守る」と書き、クラーク博士は一番先に署名し、それから学生に順々に署名させたのです。その時に15名が署名しました。クラーク博士はそれを置いてアメリカに帰ったのです。第一期生15名が署名し、それから、内村鑑三、新渡戸稲造らが第二期生として札幌農学校に入学し、その誓約に署名をしたのです。
クラーク博士から直接教えを受け、「Boys, be ambitious!」の言葉を直接聞いた第一期生の渡瀬寅次郎が、関東学院の前身である東京学院の初代院長になりました。坂田祐が東京学院に入学したのは、渡瀬寅次郎が院長を退任した2年後のことでした。1904年(明治37年)4月のことです。その年の2月、日本とロシアの戦争がはじまり、兵役にあった坂田は、この高等科で学ぶこと2か月で戦争に行くことになりました。そのために、高等科を卒業することができませんでした。日露戦争が終わり、坂田は日本に帰り、高等学校に入学するための資格を得るために、今度は東京学院の中学部に入学しました。続いて第一高等学校に入学し、ついに東京帝国大学に入学し、1915年(大正4年)にこれを卒業し、母校東京学院の教師とのなったのです。そして、1919年(大正8年)、坂田は横浜に中学関東学院を創立したのです。
坂田祐は「Boys, be ambitious!」の教育を受けた渡瀬寅次郎が創立の院長であった東京学院で学び、「Boys, be ambitious!」の精神の下に、第二期生として学んだ新渡戸稲造が校長であった第一高等学校に入学し、新渡戸の教えを受け、「Boys, be ambitious!」の精神の下に教育された内村鑑三の門に入って、聖書を学んだのです。このような経歴を持った坂田祐は、横浜の関東学院創立の責任を担うことになり、内村鑑三から親しく指導を受けたのです。
中学関東学院を横浜に創立する時に、「キリスト教を表面に掲げては学校が発展しないから、中学校としての特典を有する普通の中学校としてやった方がよいのではないか」と言う意見がありました。なぜそういうことになったかというと、1899年(明治32年)に、政府が文部省訓令第十二号をもって普通の中学校並びに高等女学校が、宗教を教えたり、宗教の儀式をやったりすることを禁じたからです。しかし、坂田は「普通の中学校としての特典が得られなくとも、キリスト教を正面に掲げてやらなければ真の教育ができない」と主張し、関東学院中学校ではなく、中学関東学院として創立したのです。それ以来、変わらず、戦争中も、逆風の中にあっても、キリスト教を正々堂々と掲げ、聖書を道徳の根底として生徒たちを教え・導いてきたのです。
太平洋戦争が終わった後、学校教育に宗教教育の自由が与えられました。坂田祐をはじめとするキリスト教学校の校長たちは、文部大臣に申請して、長い間、キリスト教学校を悩ましてきた文部省訓令第十二号を撤廃してもらいました。その時の文部大臣は前田多門で、内村鑑三の弟子でした。
今、関東学院は、政府の学校と同等の資格、特典を与えられ、その上に、自由に聖書を教え、キリスト教の儀式ができるのです。皆さんは、関東学院六浦中学校に入学し、一人一人は聖書を手にしています。これは、学校の建学の精神の土台は聖書にあることを知ってもらい、理解してもらい、聖書によって人格を養っていくためです。関東学院の建学の精神はキリスト教の精神です。この建学の精神を具体的に表現するために「人になれ 奉仕せよ」の二つの言葉を校訓と定め、創立以来99年、これを強調してきたのです。その根底である土台はイエス・キリストです。皆さんが、この建学の精神に堅く立ち、「人になれ 奉仕せよ」の校訓の実現に努力されるよう希望し、このために祈るものです。
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――今回の作品、タイトルを教えてください。
「タイトルは『和の街〜京の風物詩〜』です。」
――京都の街並みをテーマにしたとのことなのですが、どのような経緯で京都の模型を作ることになったのですか?
「今年は日本らしい風景を模型にしたいと思いました。最初は川沿いの桜、春祭り、お花見と川などいろいろな案が出ました。春の京都って案もあったんですけど・・・華やかさを大事にするために祭りを中心にしました。」
――製作期間はどれくらいですか?
「だいたい4〜5ヶ月です。特に設営の1週間前から前日に集中して製作しました。」
――お客様や審査員の方からのコメントで特に印象に残ったことを教えてください。
「審査員さんから『1位から3位まではどれも僅差でしたが、華やかさではこれが一番良かった』と言われたときは本当にうれしかったです。細かい点から雑な点まで色々ありましたが、勢いで乗り切ったなぁというのが正直な感想です。」
――今回は3度目の優勝とのことですが、過去他校ではどのような部活が優勝したのですか?
「地理部や歴史部など、鉄道とはあまり関わりのないような部活が多かったです。女子校が優勝することもありました。やはり作りの細かさ、ストーリー性のあるものが優勝につながるのかなと思いました。」
――最後に感想と、来年の全国大会に向けた意気込みをお願いします。
「作った側じゃなくて観る側を意識していきたいです。最優秀賞をとったからと作品をそのままにせず、見本として細かく分析し、次のコンテストに向けて良いジオラマを作りたいです。」「アイデアを集めて結果良い賞がとれたから、来年も表現したいものを大事にしつつ今年得た経験を活かしていきたいです。」「見れば見るほどスキのないような模型を製作します!そして2連覇を目指します。」
鉄道研究部は、11月にドイツ・シュツットガルトにて行われる「ヨーロピアンNスケールコンベンション」に出場します。来年も素敵な作品を楽しみにしています。
(SCS4年 U)
第1部は(株)ベネッセコーポレーションより石坂様をお招きし、「希望進路の実現に向けて〜高校1年生という時期について考える〜」という題で講演会を行いました。
最初は「目を瞑り、イメージしてください。今ここにカエルが3匹います。右は母カエル、左は父カエルです、では真ん中は何でしょうか」という問いから始まりました。「子カエル」という答えが多かったのですが、正解は…カエルですから大人でしかありません。子供はカエルではなく、オタマジャクシですから…。
つまり、『必要なことは「思い込み」をしないこと。「自分はこうだ」という思い込みは、将来の選択を大きく誤ることがある』というお話でした。進路選択の考え方として、まず、自分を知り社会を知る。その中で大きな幅を持って進路選択をするべきであることをお話いていただきました。
次に、2021年からの入試改革についてのお話です。2021年から?「大学入試共通テスト」が導入され、?「英語4技能検定試験」へ対応していかねばならず、?「多面的・総合的評価試験」が導入される、ことについて説明していただきました。
その中で、「本校は全国的にも評価されている英語教育を行っている」とお褒めの言葉を頂いています。 そして、?、?はいままで何度も生徒に話してきていたことですが、?について「主体性」とは何か。その「主体性」から何を学ぶのか、を重点的にお話していただけました。
今まで、身近な教員の話ではありましたが、さらに専門的な方向からのお話を真剣に聞いていたと思います。 第2部は各クラスにおいて「なりたい自分になるために」と題して、「漠然ではあるかもしれないけれど、卒業式を迎えた日にどんな自分になっているか」を考えさせるワークシートに卒業までの目標スケジュールを記入させる作業を行い、これから重要になってくる「E-Portfolio」の説明、「自分で作る調査書」、つまり、「主体性」の重要性を考えました。
高校を卒業するまであと2年と半年。この期間が長いのか短いのかは本人次第だと思います。しかしながら、ただ単に言われたことを100%やるだけでは「主体性」は0です。どうして学ぶのか。何のために学ぶのか。これからの自分はどうあるのか。を考えることができた1日でした。
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