『校報』第112号(ブログ版・その1) 2017年度聖句

2017年度 年度聖句

「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネによる福音書14章6節)

宗教主任 伊藤 多香子

 

聖書を読んでみようと思うのはどのような時でしょうか。近代日本において最大の発行部数を数えるのは聖書ではないかと言われています。聖書に目を向けその言葉に耳を傾けた人は、何かしらの問いの答えを求めたのではないでしょうか。キリスト教の信徒が多くない日本でも、聖書にはそのような力があると認識されているということでしょう。

2011年3月11日の東日本大震災の後に被災地を訪ねた時は、乗っていた車のナビに示された道のほとんどが失われていました。しかも道路を塞ぐようにタンカーや家屋の屋根といった予想もしない障害物が次々と現れるという状況です。目の前の情景は、わたしの心に大きな重しを置きました。言葉を失い、ただそこに立ち尽くしたことを覚えています。地図上の道を失っただけでなく、自分の心も進むべき方向がわからなくなったように思いました。

イエス・キリストは、十字架にかかる直前の食事の後に、これから起こるであろうことを話し始められました。それは、弟子たちが予想もしなかった苦難の道でした。裏切る者がおり、イエスを殺そうとする者がいる。しかしイエスは、その道から逃げることなく進もうとしておられることを告げたのです。弟子たちは非常に動揺します。指導者であるイエスがいなくなるだけでなく、救い主と信じたイエスが十字架で死んでしまうことは、自分たちの信じていたすべてのことが否定されたことと同じ意味を持つからです。思い描いた未来とはかけ離れていました。歩むべき道を見失ってしまった不安の中にいる弟子たちに、イエスは「心を騒がせるな」と命じられます。なぜなら、イエスが進もうとしている道は、神のみ心に従った道だからです。「わたしが道であり、真理であり、命である」と言われたイエスは、苦難の中を進むその姿こそが、弟子たちが歩むべき道であり、本当の命を得ることができる真理の道であることを弟子たちに教えられたのです。

わたしたちは毎日、安住できる居場所を求めています。それは決して間違ったことではありません。但し、安住を求めることに躍起になって自分の人生が目指すべき目標を見失ってしまっては困ります。わたしたちはどのように生きることを求めるべきでしょうか。実際には、容易に進むことができず、立ち止まっているように感じることもあります。すべてのものに見捨てられたのかと思うような寂しい思いに心が締め付けられるようなこともあるかもしれません。しかし、実はその道こそイエスの歩まれた道でした。イエスは、十字架の苦しみの中でも愛することをやめず、生きる力を与えられたのです。イエスに聞けば、苦難の伴う道であっても必ず歩むべき方向が示されるのです。

2017年3月、生徒と共に再び東北の被災地を訪ねました。まだまだ課題があることを学びました。何ができるのかと考えながら、目を上げてみると、どの町にも新しい道が次々と造られていました。その道は、未来に続く道となるように、熱い祈りと願いによって支えなければならないと思いました。

本校ではこの数年の間に、今まで大切にしてきたものに加えて、今までにない新しい取り組みを始めています。道をつくりながら進みますが、すべての教育活動は、イエス・キリストに示された道の上にあります。安住ではないけれど確かな力が与えられる道です。この1年も聖書に示される神のみ心を求めて歩んでまいりましょう。



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